DULL-COLORED POP

vol.17『演劇』俳優ロングインタビュー:井上裕朗

ある日突然、偶然に

演劇を始めたきっかけを教えてください。
僕は元々サラリーマンをやっていて、演劇を始めたのは30歳のときだったんです。もともと観るのは好きでした。20代前半にブロードウェイでミュージカルを観たのがきっかけでミュージカルが好きになり、そのあと人に連れられてつかこうへいさんの芝居を観たのがきっかけで、いわゆるストレートプレイを観るようになりました。最初につかさんの芝居を観たとき、観終わったあとうまく歩けなくなるぐらいに感動しまして……。それと同時に、舞台に出ている俳優さんたちが「羨ましい」と思ったんです。カーテンコールでは「悔しい」とさえ思いました。もちろんだからと言って、すぐ「俳優をやりたい!」と思ったわけではありませんでしたが。
ではどうして?
29歳のときに、芝居を始めるとか関係なく、勤めていた会社を辞めました。その後1年フラフラ遊んで暮らしたんですが、そろそろ働かなければと再就職を決めました。ところがその仕事が始まる直前に、つかこうへいさんの劇団※1のホームページに「オーディションやります!」と書いてあるのをたまたま見てしまって(笑)年齢制限が18~30歳でギリギリだったんですが、受けにいったんです。もちろんそれまで一度も演技とかをやったことがなかったし、なんといってももう30歳だったので、本気で俳優を始めようと思って受けたわけではなくて……。ちょうど暇だったし、オーディションに行けばつかさんとか舞台で観ている俳優さんたちに会えるのかな、ぐらいのつもりで受けました。でも合格して。「え? 俳優やれるんだ! じゃあやりたい!」と、決まっていた再就職を断って劇団の養成所に入りました。だから演劇を始めようと心を決めて始めたわけでなく、ある日突然、偶然に、という感じです。
再就職と演劇を始めることの間で迷いはなかったのでしょうか?
一応友人に相談してみましたが、自分の中では心が決まっていました。今思えば、こういう仕事をずっと前からやってみたかったんだと思います。迷わなかったどころか、嬉しくて仕方なかった記憶があります。「あいつに劇団の経理をやらせよう」とつかさんが言って合格になったというウワサもあるのですが(笑)なんにせよそのおかげでいま俳優をやれているわけなので、つかさんには心から感謝しています。
演劇を始めてみて、会社生活とは全然違いましたか?
まるで違いました。どちらもものすごくやりがいがあって、そして大変であることには変わりはありません。でも大変さの種類が全然違います。僕は証券会社で働いていたのですが、そこでは成果が完全に数値化されるシステムだったので、自分の能力やそれに対する評価がすごくわかりやすかったんです。全て数値化されて、それで給料も出世も決まるのでそれはそれで大変なのですが、わかりやすいという点ではどこまでもわかりやすかった。でも演劇は全く違います。結果が目に見えない、良い悪いの基準がはっきりしない。その分ものすごく難しい。そして、どの仕事もそういう部分があると思うんですけれど、その人の人間性とか人生経験とかそういうものが、他の仕事よりもっとダイレクトに仕事に影響してくる感じがあります。一人の人間として、より何かしらの魅力とか経験とかがないと、俳優としてもいい仕事が出来ないような部分がある。それこそがやりがいでもあるし、きついところでもありますね。
演劇における「評価」について井上さんはどのように考えてますか?
同業者同士でも何が良くて何が良くないかの基準は人それぞれだし、もちろんお客さんにもそれぞれ色んな好みがある。「これがいい、これが悪い」ってのがまるでない世界じゃないでしょうか。だからこそ、自分の良し悪しを他の人からの評価に委ねきっちゃうと大変です。ある意味では「人気商売」と言える仕事だし、声がかからないと舞台に立てないので、他人からの評価は当然気になるし気にしなければならないのでしょうけれど、かといって気にしすぎると訳がわからなくなる。だから、他人からの評価に対しては褒め言葉も貶し言葉も出来るだけクールにドライに、そしてそういられるためにも、自分の中に「自分なりの基準」をきちんと持っておきたいと思っています。俳優は自分の演技を自分で見ることが出来ず客観視出来ないので、そこがまた難しいですけれど。

仮説、そして発見 どこまで遠くにいけるかという挑戦

作品に参加する時にはどこに目標を持って挑んでいますか?
演出家が作りたいものをどう作るか、演出家が見たいものをどうやって体現するか、ということをまず最優先に考えます。ただ、演出家と俳優ってある意味真逆の仕事だと思うんです。演出家は、アウトプットされた結果が全体の中で「どう見えるか」を判断する仕事。俳優は、そこに「どう辿りつくか」の過程を掘り下げる仕事。演出家がオッケーを出してくれたら一つ最低限の条件クリアしたという感じはありますけれど、でも演出家がいいと言ったからといって自分が満足するかどうかはまたちょっと違っていて。自分の中にそれとはまた違う基準があるんだと思います。
その「基準」は言葉にできますか?
僕は、芝居に出てくる登場人物たちがみんな、自分より「すごい」人たちだと思っているんです。普段日常生活を送っていると、何か手に入れたいものがあっても、色んな事情で諦めたり逃げてしまったりする。傷つくことや問題が生じることを怖れて、自分を取り繕ったりごまかしたりしてしまう。湧き出てくる気持ちそのままでは生きていられない。でも芝居に出てくる登場人物たちは、僕自身よりもずっと勇敢に、まっすぐに、自分の人生をより良いものにするために突き進んでいる。客観的に見て彼らが善人であるか悪人であるかは問題ではありません。必ずしも人格的に素晴らしい人でなくても構わない。自分が手に入れたいものに向かって必死に生きている人はそれだけですごいんです。そして舞台上にそう生きている彼らの姿を見て、僕も生きる勇気をもらえる。自分だって彼らと同じ人間なのだから、きっと自分も同じように勇敢に生きられるはずだと。特に、俳優を始める前はそんな風に感じていました。
なるほど。
観るときには色々なタイプの芝居が好きですが、自分が俳優として演じるときは、他人と深く関わりあい、ぶつかりあい、勇敢に行動し、自分の運命を切り開いていく人間が描かれている作品が好きです。そしてその登場人物を演じるにあたって、自分の身体と心をフルに使って、その人物を体現しようとする俳優になりたいと思っています。相手や状況や運命のようなものに対して、どれだけ「自分自身が」勇敢に関わり戦っていけるか。それが僕の中にある基準です。青臭い言い方をすれば、実際に自分がどれだけ傷ついたかとか、どれだけ戦ったかとか、どれだけ愛したかとか、そんなようなことです。
お芝居をしていて本当に傷ついたり、ということですか?
はい。本当に相手に触れることができるかどうか。相手を動かすことができるかどうか。傷ついたり喜んだり絶望したりするところまでいけるかどうか。嘘をつかず、自分を守らず、逃げることなくいけるかどうか。もちろん芝居はフィクションです。自分でない人間を演じて、自分でない人が書いた言葉をしゃべるわけだから当然全部ウソなんですけれど、ウソだからこそ、終わっちゃえば全部なかったことに出来るものであるからこそ、自分の人生では発揮できないぐらいの勇敢さで立ち向かって、本当に傷ついたり恐怖を感じたりするところまで行けるはずだ、と思っています。
それと、これは何でかわからないんですけれど、戯曲の登場人物って「むかし実際に生きていたのだけれどもう死んじゃった人」という気がするんです。戯曲の中にはその人が過ごした最も大変だった時間の記録、言い換えれば「生きた証」のようなものが書かれている。そしてその人を演じることで、つまり自分の心と身体を使ってそれを辿ってみることで、その人の人生がどんなものであったかを体感してみる。その一端を知ろうとする。そのことで彼らを「供養」する。演技をすることに対してそんなようなイメージがあります。もちろん完全に知ることなんて出来ません。僕はあくまで僕自身の心と身体しか持っていませんし、自分でない「他人」を本当に知ることなんて絶対に出来ません。でもそれを想像してみようとすることに、俳優がそれを体感してみようとすることに意味があるように思うんです。外側から客観的に眺めるだけでなく、その当人の目で世界を眺め、その時々にどのように考えどのように行動したか、その人が諦めずに幸せになろうとした過程を辿ってみる。それを俳優が実際に体感してみることでしか知れない何かがきっとあるはずで。
僕の心と身体を使ったらどんなことを知ることができるか、それを最後まで探し続けたい、見つけたい。それは俳優の自己満足ではなくて、舞台上にそれを知ろうとしている俳優がいれば、観ている人もその俳優を通して、そのことを知ろうとするんじゃないかと思うんです。見つかるものが同じでなくても構わない。知ろうとするという行為そのものが大切な気がしています。
台本のせりふやト書きだけでその人となりを生きなきゃいけないというのは、すごく大変ですよね。
だから稽古がたくさん必要なんだろうと思います。
その人を形作っていくために、稽古期間中にひたすらやるしかないんですか?
稽古の中でいろいろと試行錯誤し、発見し続けることが大切なんだと思います。戯曲や演出家からのオーダーを踏まえた上で、その「結果」をやるのではなく、そこに至る道筋を丁寧に探していかなければいけないのではないかと。演出家とのコミュニケーションを通して得られる情報やヒント、自分自身で考えた設定やバックグラウンドなどの「仮説」を積み重ねた上で稽古を続けていると、あるとき突然「ああ、こういうことなのか」と気づいたり、自分がまったく予想していなかった場所に辿りつくことがあります。そのためにはある程度の時間が必要だし、時間をかけなければいけない。結果に飛びつくと発見がなくなってしまう。何でもすぐに器用に演じられる俳優が良い俳優、という評価の基準もあると思うのですが、僕はそれとは違う考えを持っています。
仮説とは、具体的にどういうことですか?
演じるにあたって、どういう設定があれば演じやすくなるか、演技が膨らむか、ということです。登場人物のバックグラウンドや性格を掘り下げることもそのひとつだし、具体的な記憶やイメージをもつこともそのひとつです。演じやすくするための必要かつ十分な「要素」をいかに見つけていくか。演じやすくなるというのは言いかえれば、戯曲に描かれている行動をどれだけ自発的に力強く行えるか、そしてその行動を取った結果どれだけ自分が激しく揺さぶられるか、ということです。そのために必要な「燃料」のようなものをかき集めて、自分に足して、稽古で試して、それによって新しく生まれる何かを発見する。そしてその結果を検証した上で改めて、方向性を修正したり足りないものを足し、また試して、発見して、、、を繰り返す。その「要素」とか「燃料」のようなものは、たぶん観客にも演出家にも共演者にも伝わらなくて良くて、自分にとってそれが有効であるならば何でもよいのだと思います。自分の助けになる「仮説」や「要素」や「燃料」のようなものがどれだけ見つけられるか、それが演じるにあたってとても大切にしていることです。
なるほど。
谷くんに以前話したときに「それいい話だからあちこちでどんどん話したらいいよ」と言ってくれた話なので、ここでもしてみようと思うのですが……
一昨年、谷くんの主宰するテアトル・ド・アナールというユニットで『トーキョー・スラム・エンジェルス』という作品を上演しました※2。その作品で僕は「神山」という経済的社会的に大成功した人間と「六本木」というホームレスの、ある意味真逆の二役を演じました。この二役は、戯曲上同じ時代に生きている別人なのですが、どこか表裏一体のような関係の役で。パラレルワールドに生きる同一人物のような二役だったんです。稽古をやっていく中で、それぞれの人物の肉付けは順調に進んでいきました。でもその作品の中で僕はその二役を交互に演じるにあたり、その二役を一本串刺しにするような強烈な何かの「要素」が必要だと感じていました。結果的に二人はまるで違う境遇に生きる、違う人格の人間になってしまっている。でももっと奥底に潜っていけば、二人に共通する何かがあるはず。それをはっきりと根っこに持っていれば、逆にそれぞれの役で思い切って違うことがやれる……。そう思っていたのですが、それが見つからないまま初日を迎えてしまった。でもたしか2回目の本番のとき、本番中にそれが急に見つかったんです。
どんなふうに?
六本木というホームレスのほうのシーンで、ただ黙って、他の人が話しているのを聞いている時間があったんです。目の前で二人が仲良さそうに喋っている、僕は少し離れたところにひとり立ってそれをただ聞いている。稽古でも何度もやっているシーンなのに、その日の本番は、二人がすごく楽しそうに見えて、自分だけが置いてけぼりにされているような気がして、すごくさびしかった。孤独だった。その瞬間、突然雷に撃たれたように、神山と六本木という二役に共通する、中心の軸となる要素が「さびしさ」だということに気づいたんです。それまでどちらの役でも全く考えたことのないことでした。でも、どちらの役も、根本に「さびしさ」があるのだと考えればあらゆる行動がしっくりくる。そのことに気づいたことで、演じているときの感覚がまるで変わることになりました。たぶん観ている人には気づかないぐらいの変化だったと思います。動きが変わったりセリフの言い方が変わったりしたわけではないので。でも僕の中では一本大きな筋が通って、根っこのようなものが掴めて、見えるもの聞こえるもの感じるものが変わり、それまでに感じたことのないことをたくさん感じられたんです。とても興奮しました。 そうしたらその終演後に、客席で観ていた渡辺謙さんが楽屋に駆け込んできて、こうやって(親指を立てて)くれたんです。
渡辺謙さんが?
『トーキョー・スラム・エンジェルス』は南果歩さんが主演だったので、謙さんは稽古の終盤からずっと作品を観続けてくれていたんですね。その謙さんが「おまえ、今日いったい何があったんだ?」とわざわざ聞きにきてくださって。ああ、謙さんは本番中に僕に起こった変化に気づいてくれたんだ!と嬉しくなって、興奮してさっき話したようなことを全部話したんです。そうしたら、ずーっと黙って聞いてくれたあと最後に一言、「やっぱり役者はハートだな」と(笑)ものすごく嬉しかったし、勇気をもらいました。
わかるものなんですね。
外から見たらほとんどわからないぐらいの変化だったと思うんですけど、俳優同士だからわかるものなのかもしれませんね。僕にとっては「さびしい」というシンプルな一語が大きな意味をもつものだった。いろんなことを考えて、悩んで、積み重ねたあげく、必要だったのがそんなシンプルなことだったというのが面白いです。稽古の初期にそれを考えたとしても意味がなかったんだと思うんです。「さびしい」からスタートするのではたぶん違っていた。いろいろ積み重ねていったプロセスがあり、その上で辿りついた一語だったから意味があったんだと思います。戯曲に書かれている「行動」を辿ってみたら「自分」がどうなるか、どこまでいけるか、その「飛距離」みたいなものを少しでも遠くまで持っていきたい。稽古が終わっても、千秋楽を迎えても、完全にゴールに辿りつくことなどあり得ないので、貪欲に「発見」を続けたいと思っています。

俳優として自立するための「遊び場」

井上さんは『PLAY/GROUND Creation(俳優の遊び場)』というユニット※3をやられていますが、やろうと思ったきっかけは?
俳優として「自立」をしたい、しなくては、と思い始めたのが大きなきっかけです。俳優って、そもそも自分でない人間を演じなければいけない、自分でない人間が書いた言葉をしゃべらなければいけない仕事です。そして、プロデューサーからのオファーを待ち、演出家からああしろこうしろと言われ、お客さんからああだこうだ言われる仕事です(笑)その仕事の性質上、そもそもいろいろなものに「従属」している仕事だと思うんです。主導権・主体性を持ちにくい。特に今の日本では、公演を企画したり、団体を主宰したりするのは、俳優ではなく劇作家や演出家やプロデューサーであることがほとんどで、俳優はそのあとを「ついていく」のが現状です。俳優自身がその状況に甘んじて主体性をなくしてしまったとしたら、それはとても危険だなと思いはじめました。
なぜなら先ほども話したように、僕が思うに、戯曲に登場する人物たちはそもそも日常の僕たちよりも勇敢に、誰かと関わったり相手に踏み込んだり、状況を変えるために力強く行動を取っていく人たちです。そして僕たち俳優は、舞台上で、その人物たちと同じように勇敢に力強く行動しなくてはいけない。そのためには、俳優自身に、自立して責任やリスクを取れるだけの「強さ」や「大きさ」がなければならないのではないかと思うんです。普段状況や他人に従属することに慣れきっている人間が、演じるときに突然、主体性や責任をもって行動する人間になれるとはそうそう思えない。普段から俳優が自分自身を、ひとりの人間として、ひとりのアーティストとして、独立した自立した存在として認識していなければならないのではないか。そう思うようになったことが、『俳優の、俳優による、俳優のための遊び場』というこの企画を始めようと思ったきっかけです。俳優だけしかいない安全なところで、俳優同士だからこそ分かり合えることを共有しながら、俳優にとって大切なものを取り戻し、俳優としての誇りをもって自立するために、何かやりはじめてみたかった。「俳優が」というより「僕が 」と言ったほうが正確かもしれません。
以前見学させて頂いた時には先ず自己紹介から始めてましたが、いつもそうなのですか?
そうですね。最初は深く考えないで始めたんですけど、今ではかなり重要視していて、毎回かなり長い時間、自己紹介に時間をかけています。一回時間の都合であそこを端折った回があったんですが、その回は全体的に上手くいかないことが多かった。ああいうふうに、大勢の前で自分のことを自分の言葉で語るっていうことは、俳優にとって意外と大事なのかもしれません。
自己紹介を聞いていてとても面白かったです。
面白いですよね。僕もあの時間はとても好きです。濃密でドラマチックで。本当は自己紹介じゃなくてもいいんだと思うんですけどね。例えば、谷くんが今回このようなインタビューの企画を立てているのも、同じようなことじゃないかと思うんです。作家や演出家はこういう機会が良くありますよね。自分の作品や活動について語る機会が。そもそも作品を観客に提示すること自体、リスクを取って自分の立ち位置をはっきりさせることでもあります。でも俳優は多かれ少なかれそこから逃れていられる。安全地帯に隠れていられる。そこを少しずつ打破していきたいです。
これからも続けたいと思いますか?
今はひとりで企画や運営をしていてなかなかに大変だし、こないだ公演をやってみていろんな課題が浮き彫りになったりもして、このままの形では続けていけないなあとは思っているのですけれど、でも、なんとかこれからも続けたいです。やるたびにすごく素敵な瞬間が生まれていて、参加している俳優たちも僕自身も、たくさんの気づきがあります。お互いが、お互いの姿を見て、見せ合って、お互いに気づきあっている。例えば、誰かひとりが壁を突破するような勇敢なトライをした日には、それに影響されて、他の俳優たちもどんどん良くなるんです。続々と勇敢なトライを始める。あの人もやったんだから自分もやらなきゃ、あの人にもできたんだから自分にもできるはず、みたいなことがいい意味で伝染していって、みんなが一斉に壁を突破する奇跡のような一日があったりします。それは普段の稽古ではなかなか経験できないことで、そういうとき僕は心から感動するし、俳優って本当に素晴らしい仕事だなって素直に思えるんです。
あと、この企画を始めてすごく意外だったのは、プロデューサーや演出家や演技指導者などの俳優でない人たちが、この企画に強い興味を持ってくれていることです。この企画はどこか『俳優の反乱』みたいな側面もあるような気がしていて(笑)少なくともそう受け取られてまわりから嫌われたり煙たがられたりするだろうなと予想していたんです。でも実際は、その逆の事例がたくさんあった。何人もの人がこの企画に賛同してくれて、応援してくれる。すごく力になっています。これからどうなっていくかはわからないですけど、妄想力と夢と野心はふんだんにあるので(笑)いろんな人の力を借りながら、大きく発展させていけたらと思っています。

DULL-COLORED POPは僕のホームグラウンド

谷さんとの出会いについて教えてください。
最初の出会いはワークショップでした。それまで谷くんの作品を一本も観たことがなかったのですが、だいぶ前から名前は知っていました。で、2010年から11年にかけての年末年始に、7日間×7時間の49時間ワークショップをやる※4、しかも破格に安い値段でやるっていうんで、企画として面白そうだし、そのとき稽古も本番もなくて暇だったのでそれに申し込んでみたんです。つまんなかったら一日行ってやめればいいやって思って(笑)でも行ったらすごく面白かった。彼がものすごく俳優のことを信頼して尊重している人だってわかって一発で好きになりました。で、その数ヶ月後、『Caesiumberry Jam(セシウムベリー・ジャム)』※5という作品で初めて一緒にやりました。その後も何度か一緒にやっていますが、最初の感覚は変わりません。本当に俳優への信頼、俳優から生まれ出てくるものへの尊重があるんだなあと、毎回やるたびに感じます。
あと、谷くんの書く「言葉」が好きです。言葉のチョイスやリズムが、僕の好みにとても合います。今どきの言葉でもなく、かといって古い言葉でもなく、自然な話し言葉でもなく、かといって硬すぎる書き言葉でもなく。リズムも響きも美しいセリフが多くて「ああ、このセリフしゃべりたい!」と思うものがたくさんあります。バカバカしいセリフもたくさんありますけれど(笑)ベースに「文学的な美しさ」があるので、そこがとても好きです。
DULL-COLORED POPという劇団に対してはどういう思いがありますか?
僕が初めて参加した『Caesiumberry Jam』は、DULL-COLORED POPが一度活動を休止したあとに活動を再開した記念の公演、第二期DULL-COLORED POP最初の公演でした。堀奈津美ちゃん以外の劇団員は、みんなそれが劇団員としての初めての公演だった。その劇団としての再スタートの公演に参加して、継続的にその後も関わらせてもらっているからか、僕もこの第二期DULL-COLORED POPの劇団員のひとりみたいな、心持ちとしては自分の劇団のような感じがしています。劇団員たちはどう思ってるかわからないですけどね。小うるさいおっさんがまた来たとか思われていたらイヤですけどね(笑)僕としては変な気を使わなくて良いのでとてもラクです。自分のことを必要以上にアピールする必要もない。俳優としても人間としてもだいたい知られちゃってますから。
そのくせ、だからこそかもしれませんけど、谷くんは毎回、僕に意外な役を振ってきます。僕が良くやってるタイプの役はやらせないで、僕の苦手そうなことを毎回やらせる(笑)今回もそうですね。
『河童』※6の役もそうなんですか?
そうですよ!「歌って踊って」みたいな作品になぜ僕を呼ぶのか(笑)嫌いなわけじゃないしむしろ好きですけれど、得意じゃないし。そもそもカッパの役だし(笑)テアトル・ド・アナールの『従軍中のウィトゲンシュタインが、(略)』※7のときは、最初台本を読んだときに「この役だけはないな」と思った役になりました(笑)なんでこの役?と聞いたら、顔を真っ赤にして怒っている井上くんを見たことなくて見たいから、と言っていました。でもそうやって、自分が普段やれないタイプの役をあててくれるのは、俳優としてとても嬉しいことです。
今回の作品は「演劇」というタイトルですが、それを聞いた時はどう思いましたか?
バカだな~と思いました(笑)そういうこと思いついても、普通の人はやりません。そんなの自分の首締めるだけなので(笑)この劇団はバカな人ばっかりなので、多分劇団員たちが「いいじゃん、これ!」って後押ししたんだと思うんですけど。ほんとバカですよね。それに尽きます。

別の視点で世界を見て、想像して、思考する

井上さんは「演劇」って何だと思いますか?
何でしょう。答えの出ない問いに対して、作り手と観客が一緒に考えたり想像したりするもの。それが僕の中の「演劇」ですかね。そういうものであってほしい、そういうものを作りたいと常々思っています。普段生きているときって、どうしても答えを出さなければと思ってしまうし、答えを出すことを求められているように感じます。そしてその答えは、自分の目で見た世界、自分が生きてきた文脈の中で問いと向き合った中での答えにすぎません。でも「演劇」では、架空の物語があって虚構の世界がある。そこでは、人間が個々にもっている視点や想像力の限界みたいな枠を取っ払って、いろんな方向から物事を見たり想像したり考えたりすることが出来るような気がするんです。作り手が答えを用意するのではなく、観客も答えを求めるわけでも答えを出すわけでもない。ただそこにいる全員が、個人の枠を超えて、答えのない問いに対して、いろんな方向から物事を見て想像して思考する。「演劇」というものが、そういう純粋で贅沢な時間だといいなあと思います。
社会にとって演劇は必要だと思いますか?
人間は普段の生活の中で、ものの見方や考え方が、自分でも知らないうちに枠にはめられて偏ってしまうものだと思います。それが僕にはとても怖しいことだと思える。でも「演劇」は、それを一旦リセット出来る場所、リセットして新たな目でいろんなことを想像したり考えたり、自分の視点とは違う視点で世界を見る契機になり得ると思うんです。今の時代、そしてこれからの時代、そういうものがひとつのシステムとして必要なのではないかという気がします。
そのためにも、僕自身は俳優として、出来る限りニュートラルでい続けられたら、自分を疑い続けられたらと思っています。普段の自分はかなり偏ってる人間だと思いますけど、俳優をやっているときは、本来の自分と演じる役の人物を対等におきたい。自分の方をより大切にするわけでもないし、役の人物をより大切にするわけでもない。僕が見ている世界も、彼が見ている世界も、等価値のものとしておける俳優でいたいと思っています。
脚注
※1 北区つかこうへい劇団
※2 テアトル・ド・アナールvol.3『トーキョー・スラム・エンジェルス』
※3 PLAY/GROUND Creation http://www.playground-creation.com
※4 7×7=49時間集中ワークショップ(2010年12月25日~2011年1月6日)
※5 DULL-COLORED POP第10回本公演/活動再開記念公演
※6 DULL-COLORED POP第14回本公演
※7 テアトル・ド・アナールvol.2『従軍中の若き哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがブルシーロフ攻勢の夜に弾丸の雨降り注ぐ哨戒塔の上で辿り着いた最後の一行“──およそ語り得るものについては明晰に語られ得る/しかし語り得ぬことについて人は沈黙せねばならない"という言葉により何を殺し何を生きようと祈ったのか? という語り得ずただ示されるのみの事実にまつわる物語』