DULL-COLORED POP
vol.17『演劇』俳優ロングインタビュー:塚越健一
大学に入らないとお芝居が出来ないから、必死に大学に入りました(笑)
- 演劇を始めたきっかけを教えて下さい。
- 僕が初めてお芝居を演りたいって思ったのは、9歳の時でした。祖母に連れられて行った昭和54年5月の歌舞伎座の公演、「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」と言う常磐津節に合わせて踊る歌舞伎舞踊の演目を見た時だったんです。そのヒロインをなさっていたのが、亡くなられた六世 中村歌右衛門先生で。……冬に満開の桜をつける小町桜。その桜の精である遊女、薄墨と小野小町の二役をやっていたんです。舞台に大きな桜の木のカキワリ。幹の中央に紗幕が張ってあって。桜の精である薄墨が登場する時そこに、ぽーっと明かりが入り、白一色の装束を着た傾城姿の歌右衛門さんがふわっと浮かび上がるんです。それを観た瞬間に「アレになりたい!」と思ったのがお芝居をやりたいと思ったきっかけです。
- それでは、もう9歳の頃に?
- そうです。もうとにかくアレになりたくて、なりたくて震えてました(笑)役者になりたいとか何とかじゃなくて『アレ』になりたい!って思ったのが一番最初です。で、観終わって家に帰って考えた時に、当時の僕は劇団ひまわりしか知らなくて……劇団ひまわりに入りたいって言ったのが、意思表示の一番最初でしたね。ただ、その時に祖母に言われるんですよ。「あなたは大学に入るまでは、ちゃんと一般の社会にいなさい。いきなり子役で芸能界に入って、芸能界しか知らない状態で過ごしていると、中身の薄っぺらい人間になるから。子役のうちは小さい可愛いでチヤホヤされても、中身がなければ、結局どこかで行き詰まる。だから大学に入るまではちゃんと一般人として……普通の人としていろんな経験をして、自分の中に色んな経験を積みなさい。そのあと、大学に入ったなら、後はあなたの好きな様にすればいい」って。あ、これはあくまで僕の祖母の個人的な見解であって、僕が、子役から芸歴重ねてらっしゃる方をディスってるわけじゃないですからね(笑)。
- それではその時は劇団ひまわりには入れてもらえなかった?
- そう、入れてもらえなかった。そのあと、僕、結局大学を4年で中退しているんですけれど……その時にとにかく大学に入るという目標が出来たんですね。大学に入らないとお芝居が出来ないから。
- それもすごいですね。その為に大学へ?
- そうなんです。普通の人って、例えば社会に出るまでに何が自分に出来るのかって探したりとか……僕らの世代でいったら、いい高校入っていい大学入らないといい就職が出来ないから、みんな大学に行くんですけど僕の中では全く別で。大学に入らないとお芝居が出来ないから、必死に大学に入りました(笑)しかも、「大学に入りました!」って言っても、両親や祖母が納得する大学じゃないと、もしかしたらダメって言われちゃうかもしれない……だから「偏差値的に六大学以下の大学には行きません!」て言う目標を勝手に設定して明治大学に入ったんです。
- 大学入るまではお芝居をやってはいけない状況の中、自分でお芝居をする為に何かこうしようとかは?
- 僕は、お芝居の入り口が歌舞伎だったってのもあって、一時、高校に入る前の時点で国立の養成所に入る事も考えたんですけど……その時、やっぱり祖母から(笑)「歌舞伎の役者さんたちって言うのは、それこそ物心つくかつかないかの頃から、その家の芸を継ぐためにずっと修行しているんだよ。だから、あれになろうたって生半なことじゃなれないのよ」って言われたんです。先代の猿之助さんのお弟子さんたちの21世紀歌舞伎組っていうのがあって、其処の俳優さんが幹部俳優になったり、名題役者になったりとかって言うのはありますけど、僕が魅せられた「歌舞伎の藝」って言うのを考えた時、『やっぱり歌舞伎を演るんだったら梨園に生まれなきゃやっちゃいけない』って自分の中で結論が出ちゃったんですね。だから養成所に行くことも途中で考えなくなりました。そうですね……高校演劇もやってなかったし。あとはお稽古事くらいですかね。さっきから登場している祖母……母方の祖母なんですけど、もうすごい古風な人だったので、『浴衣の一枚も縫えない様な娘を嫁には出さない!』みたいな人だったんで、日本人なんだからお茶とお華くらいはやりなさいって言われて。お茶とお華を当然のようにやらされてました。で、踊りも僕自身ちょっと興味があったんで……。
- それは高校の時とか?
- いえいえガキの頃です。小学校上る前から。中学上がるまではきっちりやってました。
- その頃は京都の方に住んでいらしたとか……
- ええ 僕、小学校上がるまでは諸事情により京都です(笑)っと僕、祖母に引き取られて育てられたんですね。だから、母親いない父親いないって言う状況が当たり前のようにあって。そんな中で育てられて、物心ついた時から大人の顔色伺って(笑)子供心に、どうやったら気に入ってもらえるんだろうとかって事を考えながら生きてきましたよね。いま、反動で自分の人の好き嫌い、興味のあるなしハッキリ出ちゃってますけど。ちょっと質問から(ぶわぁ~っと)ずれましたね(笑)
- その国立の養成所っていうのは年齢制限とかはあるんですか?
- 確か23歳くらいまでじゃなかったですかね? 定期的に毎年毎年募集していたわけじゃなくって2年?かに一度あったんです。たまたま僕が高校に上がる年はあったんです。ちょうどその年に入ったのが今活躍されている女形の市川春猿さん、後はいま新派の市川月乃助さんですね。
- そういう方もいらっしゃるんですね。
- 先代の澤瀉屋さんは門閥に縛られずに門戸を開くことに熱心でしたからね。お弟子さんで国立出てから入られて、今はもう名題役者さんになって、いい役いただいたりしてる方多いですよ。
「ち▲こま●こ×2」言いながら異形の集団がぐわぁ~って来るんですよ。
- 大学に入っていよいよお芝居演るってなった時に騒動舎と出会って?
- そうなんです。僕大学入るまで二浪しているんです。高校時代は吹奏楽部にいて、夏の県大会で関東まで行く行かないってところまで行っちゃったので、秋までやっていたんです。それだから多分現役じゃ受かんねえんだろうな……と思ってたら案の定、受からなくて(笑)しかも、僕もう当時から大学は卒業しないだろうな……って自分の中であったんですね。芝居で食ってく為にはどうしたらいいんだろう?芝居でやっていけるのかどうかと言うのを見極める時間にするために大学行くって決めてたんで。んで、卒業しないっていう自分勝手をする以上、授業料は自分で払わねえとダメだって思って18歳からアルバイトを始めてるんですよ。そして、朝、予備校行ってIDカード通して出席をとって……そのままパチンコしていました。
- パチンコですか?
- はい(笑)もしくは自習室で寝てました。で、夜になると夜な夜な水商売のアルバイトに出かけてって……まだ当時は水商売出来たんです。いや、やっちゃいけないんですよ法律的には……これ載せていいのかどうかわからないですけど。ほんとはやっちゃいけないんです。やっちゃいけないんですけど、普通に働けたんです(笑)
- 水商売はお給料が良いから?
- そうです。単純に……そんな状態で二年間過ごしてて。でも大学なんか普通に勉強していれば受かるだろうって半分思っていたんですね。
- 成績はよかったんですか?
- 悪くはなかったです(笑)だから二年間アルバイトをして二浪して入ったんです。二十歳ですよね。そして大学入って、新歓の時期にキャンパスを歩いても誰からも声かけられなかったんですよ。まぁ当時から老け顔でしたけど(苦笑)で……うわぁ~どないしょーって思って、しょうがねえかっと自分でいくつか演劇サークルを見て回るんですけど、どれもぴんとこなかった。んで校門あたりでフラフラ悩んでたら、騒動舎音頭に出会ったんです。
- 騒動舎音頭って、「ええじゃないか」じゃないですけど、あんな感じで声を上げながらキャンパス内を練り歩くんです。練り歩くというか踊り歩くというか。しかもそれがほとんど半裸に近い格好だったりとか、メイクして奇妙奇天烈な格好してるんです。向こうの方からぶわぁ~って。最初は「映画演劇騒動舎」って言ってるんですけど、そのうち「ちんこまんこちんこまんこ」って言い始めたりして、とんでもない奴ら…異形の集団がぐわぁ~って来るんですよ。で、それを観た時になんだこれは!っと思ったんですよ。「映画、演劇」って言ってるんだけど、このハチャメチャさってなんだ?やってることはハチャメチャなんだけど、それをものすごくド真剣に、馬鹿みたいなパワーで走り去っていく……ぇ?で、それを見た時にこれだ!って思っちゃったんですよね。
- 歌右衛門の衝撃と同じくらい?
- そうですねぇ(苦笑)その連中―まぁ、先輩たちなんですけど、が発しているその熱量って言うか、こんな馬鹿馬鹿しい事を、こんなにド真剣にもの凄い熱量を持ってやってる―それに魅せられちゃって、そのまま後を追っかけて行って、そこのサークルの勧誘ボックスに行って「入りたいです」って言っちゃったんです。これが間違いの始まりで(笑)まだどんな芝居をやっているとか一切観てないのにそのまんま入ってしまって。その日の午後には、もう騒動舎音頭に一緒に参加してました(笑)
- 他にもそう言った方はいらっしゃったんですか? ついて行っちゃったような。
- 居ましたね。僕と同じ日に入った奴。今は結婚して、宇都宮市役所の職員してて、宇都宮のコミュニティFM?で“愉快さん”って名前でパーソナリティやってますよ(笑)当時の騒動舎って多分、明治の学生演劇が一番元気だった時期と重なっていて、後に同じ明治のサークル「活劇工房」出身の河原雅彦さん率いるハイレグジーザスで、エログロ&パワーパフォーマンスで話題をさらってくような連中が、ちょうど一つ二つ上の世代にいたんですね。そいつらが中心になってすごいハチャメチャなことやってるんですよ。兎に角とんでもない破壊力とパワーを持ったところで、でも、この熱量を持って何を演るかがわかっていなかった。思い付きで楽しい事……思いついたとしてもやらねえだろって言うようなことを当然のようにやってのけるパワーとかっていうのも、惹かれた要因でしたね。ただ入った芝居をやっていく中で確かにこいつらの持っているパワーっていうのは凄いけど「僕のやりたい芝居はこれじゃない」って言う違和感は常にありました。
“騒動舎の異端児"って言われてましたけど、どこかでそれを喜んでました。
- それは歌舞伎じゃないからとかいうことじゃなく?
- ギャグ芝居をやるのは当時、明治の学生演劇の主流だったんですね。あの世代以降出てきた劇団、今商業にいってる連中も、当時からギャグ芝居をやってたん。舎内ではモンティパイソンや、ラジカル・ガジベリビンバ・システムとかの影響もかなりありました。ハイレグはエログロ&ナンセンスハチャメチャショーをやったり、!OJO!(現在の熱帯)や、僕と同学年の活劇工房出身の動物電気なんかはギャグ芝居をずっと演り続けている。一年後輩のジョビジョバも、『俺らは平成のドリフターズになりたい』って言ってギャグ芝居である程度一時代を築いた。その下の後輩たちはジョビジョバの影響をモロに受けていて、「ギャグ芝居をやることが、メディアに取り上げられる近道」みたいな風潮があったんです。ところが、僕はシェイクスピアだったりギリシャ悲劇だったり、清水邦夫や三島由紀夫がやりたいって声高に言ってましたからね。いつからか、「騒動舎の異端児」って言われてました。で、言われてみるとその特別感が妙に気に入ってしまって(笑)同じような作品について、語り合ったり、面白さを共有する相手はいなかったけど、若さですね、どこかでそういわれるのを喜んでました。
- そんなサークル環境だったんですけど、その騒動舎の3つ上に花組芝居の大井さんがいたんですね。で、ある日、大井さんに花組の芝居を観に来ないかって誘われて観に行ったんです、初めて。そのとき、こんな劇団があるんだって思って。当時、花組芝居は自らを“ネオ歌舞伎”と名乗り、お芝居を上演して注目を集めていたんです。大歌舞伎以外にこんなことやってる劇団があるんだ!すごい!って感動して。それで、在学中にその花組の研修生のオーディションを受けるんですよ。梨園の人たちじゃなくてもこれだけ歌舞伎をやっている!それも伝統芸能としての歌舞伎ではなくて、もっと歌舞伎が娯楽だった頃―庶民の娯楽だった頃の面白みのエッセンスをギュっと凝縮して、一般の人たちには敬遠されがちな歌舞伎の敷居をさげ、面白おかしく楽しんで貰う為にはどうしたらいいのか?そも、歌舞伎の面白さって何処にあるんだろう?て事に真剣に取り組んでいる。その考え方にも凄く惹かれました。後は、単純に加納さんのファンになっちゃったんですよ(笑)『この人のお芝居に使って貰いたい!』って一番最初に思った演出家が加納さんだったんです。決して大袈裟ではなく、騒動舎って居場所には違和感を感じながら、どうしたらいいのか分からなかった僕が、当時見つけた一つの光明が花組芝居だったんです。
- そうなんですね~。大井さん騒動舎だったんですね。
- そうです。御老屋さん騒動舎だったんです(笑)
- その後で、zi-centuryって、あれは起ち上げ組なんですか?
- いや、起ち上げ組ではないです。出会いはzi-centuryが、江戸の戯作を基にしたオリジナル作品を「東京ルネサンスシリーズ」と銘打って連作上演しようとしていた時で。「鳩寂-くじゃく―」という、四人の男たちの群像劇だったんですけど。その作品に出てくる「色盲の浮世絵師」っていう役にあう役者がいなかった。てかそもそも、その役は演目の中で“道成寺”を踊るシーンがあって―女形をやれる役者を探してたらしいんです。で、当時の僕は花組芝居の研修生終わって、正座員に成れず。そのあと新劇の養成所……文学座とか、円とか、無名塾、ニナガワスタジオと片っ端から落ちて、流山児☆事務所入って、辞めて、ちょうどフリーだった時期だったんですね。ワンセンテンスで来歴をサっと流しましたけど(笑)自分が主宰してるユニットで芝居をうってたんですけども、その公演をたまたまzi-century主宰だった藤原大厳が観に来てて、終演後いきなり楽屋で、『ぜひうちの芝居に出て下さい』って言われて引っ張っていかれたんです。
- それから先もzi-centuryは客演なんですか?
- レギュラーでした。あそこは当時、俳優が3人しかいなくって男優ばっかり。そこにずっとレギュラーで呼ばれてたって感じですね。
- 塚さんは谷さんと出会われるのは騒動舎の先輩後輩としてじゃなく?
- じゃないです……全くそうじゃなくって。zi-centuryの公演の最中にちょっと事故があって、僕一回干されちゃうんですよ、お芝居の世界から。
- 干された?
- えぇ、干されたんです(笑)その事故があった後、諸々の事情で、僕その年に入ってたお仕事6本断ってるんです、キャンセルをしなきゃならなくなって。まぁ、そんな事をすりゃあ仕事来なくなりますから単純に……。それで、仕事干されちゃって。でも、食ってかなきゃいけない。でも、芝居は出来ない。当時二丁目でお店もやってたんですけど、運悪く年が明けたら体壊して、二丁目での水商売も出来なくなって、じゃあ、どうしようって言って……。30歳を目前にして、一般社会と向き合わなきゃならなくなったんです。自分探しじゃなくて、自分にできること探し(笑)んで、まず最初に会社を立ち上げたんですよ。会社を立ち上げて、自社でのレストランの経営&飲食店経営のとかコンサルティングやプロデュース、マネジメントの仕事を始めるんです。で、その会社が軌道に乗って3年目から黒字転換したら、飽きちゃって(笑)「もうやることもないだろうから抜けるね!」って抜けるんです。で、次にドンキホーテに就職するんです。ドンキホーテには5年いるんですけど。自分性格的に、人に使われてサラリーマンやれると全く思っていなかったんですね。ところが意に反して、サラリーマンとしてトントン拍子に評価されていっちゃうんですよ。営業成績もすごく良くって。30過ぎて中途で入って、もう3年目にはソコソコ以上に頂いてたんですね。「俺もサラリーマンで食っていける」という自信にはなったんですけど…このまま、数字数字に追われていく人生で終わっていいのかなって疑問が(笑)
- そんな時に見つけたんですよ、あの谷センセイのブログ「playnote」を(笑)あれを読んだ時、何回目かのすごい衝撃で(笑)ああ面白い文章書く奴いるな~って。そしたら、あっ、えっ?こいつ騒動舎なんだ!って二度目の衝撃。そっから、一日で全エントリーを読破するんですけど、読み進めていくと谷センセイ自身も「騒動舎の異端児」だって言われてるって書いていて、勝手に親近感を募らせてたんですよね。で、それで2009年ですよ。2009年……自分もそろそろ40手前だなって時に、「俺、本当にこのままで終わっていいの?」て思いがふつふつと湧いてくるんです。もう、どうにも止まらない勢いで。そんなとき丁度、DULL-COLORED POP vol.8「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」のWSオーディションがあるって言う記事を見つけちゃうんです。あっ、これだ!って(笑)天啓だと思いました(笑)じゃなきゃ思い切れませんでした、いくら僕でも。「こんなに面白い文章を書いて、こんなに好きな芝居の系統も似ている男がいる。ここで受かったら会社やめよう!もう一回芝居の世界に行こう!」って。
- それはもし受からなかったら芝居はもうやめちゃってたかもしれない?
- そうですね。って言うか、今でも覚えているんです。WSオーディション行った時の自分の緊張具合と言うか、もう恐怖しかなかったんですよ。それまでもお芝居はやってきたはずなのに。色々オーディションも受けてきてるんですよ。それなのにかつて感じたことがないくらい緊張していました。で、実際に相手役を目の前にすると、相手役が怖くてしょうがないんです。そんな経験も初めてだったし、「俺やっぱり芝居なんか出来ねえんじゃないか」っていう恐怖感しかなくて。終わった時、「もう落ちたって」思ってました。もう役者として舞台に立つなんて、多分一生出来ないんだってすごい絶望感を感じてたんですよ。ところが受かったって言う知らせが来て。本当に嬉しかったんですけど……でも、嬉しいよりやっぱり不安のほうが先に立っちゃったんです。
- 果たしてやれるのか?
- そう。やれるのか?やれないのか?っていう。だから本当に「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」っていう作品に関わった時は、イチから出直すどころの話じゃない。ゼロから始める感じでしたね。
- 百花さんとかも出てましたよね?
- モモちゃんもそうだし、WSオーディションにはエィティもいたりとか。後、犬串の藤尾姦太郎君とか、ダルカラにも出てる三嶋義信さんだとか、青☆組によく出てる田村元さんがいたり。みんな同じ日程にいましたね。
僕が押し掛け女房ならぬ、押し込み強盗したんです(笑)
- ダルカラ第二期に関わったのは谷さんから誘われて?
- いや、違います。僕が押し掛け女房ならぬ、押し込み強盗したんです(笑)「マリー・ド・ブランヴィリエ侯爵夫人」の打ち上げが終わって、そう、朝方6時くらいですね。飲み直そうみたいな感じで……。みんなで新宿中央公園に向かって歩いてたんです。その時に僕が谷先生のところに行って突然、「谷センセ、僕はあなたの才能に惚れました。だから僕は、あなたが僕のことはもういらないって言うか邪魔だから俺の目の前から消えてくれって言うまで、役者として関われるのが勿論それが一番最高だけども、そうじゃなかったとしても君の創作活動に関わり続けるよ……関わり続けさせてもらうからね」……って言う一方的な告白をしたんです。それから次の公演になる初演の「プルーフ/証明」とサラ・ケインの「心が目を覚ます瞬間」、その後、活動休止に入って活動再開が始まるまで一年半強……二年弱ですかね。商業の現場を除いてそれ以外は全部僕ついて回ったんです。そしたら周りから「谷賢一が演る芝居の現場に行くと塚越がいる」って言わるようになってました。
- 演出助手みたいな?
- だったりとか……あとはお手伝いのもう下っ端の兵隊でいたりとか(笑)
- とにかく一緒に……
- そう、とにかく一緒に演りたかった(笑)谷センセの創作現場に関わって、見て、吸収したかったんです。だから「僕が、あなたの作品創りに関わりたいから行ってます!」っていうスタンスでした。
- それは今も変わらないですか? その気持ち。
- 基本は変わってないです。多分いま小劇場界見回して、谷以上に信頼出来る演出家、脚本家は僕の中にはいないです。僕、古典と言うものに対しての間口が、若い世代の役者さん達よりは広いと思うんです。どちらかと言うと本当はそっちを演りたい人なので。古典に対する知識と腕力を持ってる演出家。そう言った手法を技術を持ち、尚且つ、芝居の一番原初的なところ遊び心を常に持ちながら、これだけ果敢に実験的なことをやって行ける幅を持った演出家っていま、谷賢一以外に同世代には中々いないんじゃないかな?って思います。で、そのどちらも経験出来る場って、DULL-COLORED POPをおいて今ないんじゃないかなって事も凄く感じています。
- この5年の第二期DULL-COLORED POPって言うのは凄く重たいもの?
- 重たいですね。僕がこの世界に戻ってきた時に一番衝撃的だったのが、僕が20代の頃にやってた演劇ではタブーとされていた事が、「それこそが正しい演技」になっていた事なんですよ。価値観の転換ですね。例えば、僕らはお客様にケツを向けるなんて事は、絶対にやってはいけない事だと言われた。台詞を映像のように普段話しているこのトーンで喋るなんて事も、絶対にありえない事だった。平田オリザさんの提唱した「静かな演劇」的なもの……オリザさんの著作を読むと、それが本当に正確な意味で下に広がっていたのか?って言う事に関してはまた疑問が一杯あるんですけど、とにかくその「静かな演劇」みたいな潮流が保守本流みたいになっていたんですよね。
- 「マリー・ド・ブランヴィリエ」が終わってから、谷センセに薦められて、世田谷シルクのオーディションを受けたんですけどそのオーディションの時に、堀川炎ちゃんから言われたんですね。「姉さんのその台詞のやり取りの間って言うのは演劇としては正解なんです。でも、私が欲しいのはそれじゃないんです」って。その時にカルチャーショックを受ける訳ですよ。演劇としては正解だけど、それが欲しい訳じゃないってどういう事なんだろうって……。後から思えば、現代口語の台詞のやり取りって言うのをその時の堀川炎ちゃんは欲しがってたんですね。だけど、僕は『舞台上での現代口語の台詞のやり取り』を知らなくて、それより以前の芝居の間、声、トーンでそのやり取りをやってしまう訳ですよ。で、違うって言われた時に、はっ!?って。「そうか、僕は完全に浦島太郎なんだ!」って、この時に気付くんです。この浦島太郎の時期に発展していった演劇のスタイルだったり、演技の方法論だったりって言うものを吸収していかないと、これから舞台俳優やってけないって。そういったものを吸収したり、それよりも更に実験的な事を色々と模索させて貰った物凄く大きな5年間でしたね。
『演劇』って声を上げているのに届かない庶民達の声だと思っているんです。
- 一回演劇を離れるような時間があったと思うんですけど、それでもやっぱり演劇に戻ってきた理由ってありますか?
- ……やっぱり、表現欲求なんでしょうね。社会にとって、演劇の果たしている役割ってなんだろうって考えた時に、娯楽であると同時に、僕は声を上げているのに届かない庶民達の声だと思っているんです。時の政権であったりとか社会に対する、庶民からの批判の声であったと思うんです。僕は近代戯作をやってたので、そこから例を挙げると、例えばそれは『仮名手本忠臣蔵』ならば、時の八代将軍吉宗の治世……年貢を五公五民にする増税政策によって招いた農民の生活の窮乏や、庶民にまで倹約を強いた事への不満や批判の現れであったりとか、社会が閉塞してくると心中モノが流行る。 作品を作るきっかけには、必ずその作家や演出家のその時代や、社会が抱える問題への意識があって。それは当然、その時代を生きている庶民たちも抱えている問題なんですね。見ている目線はより庶民たちの方に近いんです。
- 今、マスコミがなかなか政権批判をするのが難しくなってきている中で、「演劇」は上手くエンターテイメントと言う衣を着せながら、常に庶民の側にあってその届かない声を届ける為に必要な機能だと思っているんです。自分は作家でもないし演出家でもないんです。けれどもその自分が参加する作品って言うのは、選んでいる。勿論、作家や演出家・プロデューサーも演者を選んでいる。あ、いま興行的な集客力とがいう俗な要素は、敢えて除いてますよ。あくまで小劇場界という「比較的興行的要素が少ない場」として話してます。と、其処には作家・演出家・プロデューサーと演者の「最小公倍数的な思想」があるわけです。表現者として、自分の中にある表現欲求と言うか世に問うていきたいものがそこにあるんですよね。いきなり社会を変えるとか何とかって言うのは無いけれど、「自分自身であったり社会に対して問いかけたいこと」を表現出来る場所だと思っています。
- 僕が、谷センセの芝居が好きなのは、谷センセの中では明確なテーマがある。その作品にはひとつの大きなメッセージがあるんだけどもそれを説教臭く感じさせない。あくまで物語の後ろ側にテーマとしてあるだけできちんと物語を観せてそこで楽しませるんです。でも、観た後に ふっ、と何かが心に引っかかっている。何が引っかかっているんだろうって言う事を考えさせる。って言うスタイルを貫いている。それが、谷賢一の書く作品、作る作品の一番の魅力なんですよね。。
- ……そう、問いかけなんです。何かを考えるキッカケなんです。
- 最近ずっと思ってる事なんですが、社会派だと言われているお芝居や、ドキュメンタリー映画で素晴らしい作品沢山あるんですけど。同時に難しいなっと思うんです。最近受け取る側の問題として、与えられた情報に対してあまりにも無防備に影響を受け過ぎているな~って思うんですよ。その問題に対する切り口って言うのはその作り手側の思想が必ず入ってるんですね。で、それはやっぱり一個人からの意見でしかないんです。それが絶対ではないわけですから。それが考えるきっかけになっては欲しいんですが それで洗脳されて欲しくないと思うんですね。ドキュメンタリーって言うのは、お芝居のコートを被ってないからそれが現実なんだって思いやすいんですね。だけれども、あれは編集された出来事だし、なんなら撮る出来事さえも取捨選択されているんです。ひとつの結論に向かって誘導しやすいメディアなんです。だから受け手側は「そこには編集者の思想思考が必ずあるんだ」って事をまず前提として持たなきゃいけない。
- 社会派と言われている演劇も全く同じだと思うんです。勿論、綿密な取材をしている。その現場に足を運ばれたりインタビューをされたりって言う凄い膨大な時間の積み重ねがあった上でその本を書いているんだけど、でも、そのデータを料理して作っているのは脚本家と演出家の思想と志向なんですよね。だから、それはひとつの出来事に対するひとつの思考だって言う受け取り方をしないといけないと思うんですね。それは全部ではないんで……一方の見方で作られたものであって全てではないわけですよ。
- 具体的な作品をを思い出してないですか?
- ええ(笑)その作品が何かって話は置いておいて(笑)……不遜な物言いに聞こえたら申し訳ないんですけれども、情報を与えられる事に慣れてしまって、自分で考えると言う事を放棄してしまっている受け手側がすごく多くなったんじゃないかな?って思うんですね。それはもうテレビ文化の最たる悪事のひとつだと思ってるんですけど。わかり易さとかキャッチーさって言うものに飛びつくことが多い。そりゃあお金を払って観に行って、分からなかったり考えたりとかするよりも、観てただ単純に面白かったなって言う方が、演劇を娯楽として考えた時にはウケるんだと思います。一般受けはするんです。だけどそのわかり易さとかキャッチーさって言うものに拘るあまり、単純に記号化された作品……登場人物だったり、そのテーマに対するイメージであったりとかって言うものを作り過ぎてしまう……それが問題の本質を誤解させてしまう、理解からかけ離れて行ってしまうんじゃないかなって思うんです。
- 最近取り上げられることが多い、差別の問題、セクシャルマイノリティの問題とかってありますよね。で、これ自分の実生活に直接関わってくる問題ですから、一番デリケートな部分って絶対どんなに取材をされたって、どんなに信頼関係作ったって真実というか、核心に迫る部分って絶対に言わない思うんですね。けれども、作り手側は作品を作らなければならないから、自分の考えに合う事実・事象を積み重ねて、想像で埋めて、わかり易いイメージで作ってしまう。これはもう、当事者の抱える問題とは別物なんですよ。今テレビでゲイって言うものに対する理解度が広まったとか、認知度が広まったって言いますけども、それもどうかな?って思ってるんです。テレビに出てくるゲイの人達って言うのは必ずおネエであったり、女装をしていたり、とてもわかり易い記号化された人達なんですね。けれども、それってゲイの中でもある一部の人達であって、普通の男性の格好をしていて、普通の男性の言葉を話しているんだけれども、男が好きなんですって言う同性愛者は幾らでもいるんですね。ひと昔前、あの~とオカマ50人とかって言うバラエティ番組が流行ってよくやってたんですけれど、あれもおネエで喋っている発言だけなんですよ、放送されるのは。普通の格好をしたゲイ達が、普通の男性の言葉で発言しているのとかは一切編集でカットされてるんですね、「面白くないから」。テレビ局側はおネエが話してるところしか残してないんですよ。いや、嘘じゃんって……それはゲイの真実の姿じゃないよねって。普通の一般的な一般人と全く同じ格好をして普通に生活をしているゲイって言うのは取り上げないんです。まぁ、生活を侵される危険を冒して名乗り出るゲイも少ないとは思うんですけど。
- でも、怖いなって思うのは、そう言うわかり易い記号化をすることで、自分とは違う人種なんだって言う安心感をヘテロセクシャルの人達に与えるんですよね。印象として「あの人達は特殊!」って言う。だから、メディアがLGBTの人達に対する理解を広めようとか言ってるんですけど、却って差別化を助長しているんじゃないかなって。……そう言う問題を見ていると、余計に我々作り手側の姿勢も考えなきゃいけないし、受け取る側にもそれが全てじゃない、まずは疑ってかかるというか、あくまで考えるひとつのきっかけにして欲しいんだ!って言う事は強く訴えていきたいですね。
- 演劇も映画も本来、大衆に対しての娯楽として受け入れられやすいメディアではあると思うんです。だからこそ、権力者によって大きなプロパガンダにも、大きな流れを作ることにも利用される。ヒトラーであったり、戦前の日本が国民の士気・戦意高揚の為に宣伝映画を作ってたことを例に挙げるまでもなく。そういうメディアであるとは思うんですけど。だからこそ、作り手である我々はそうならないように、そう利用されないようにって事を常に考えながら作っていかなきゃいけない。また反面、声なき声を届けるひとつの手段だって言うこともまた、演劇って表現が現代社会にあるひとつの大きな存在理由であることを忘れてはいけないなと思っています。