──早速ですが、自己紹介をお願いします。
内田:内田倭史(うちだまさふみ)です。22歳で出身は九州の大分県で、大学一年生の時に上京してきて今は東京に住んでいます。大学で演劇を始めて今は五年目です。ちょっと4年生ではないんですけど(笑)。
──大学に入ってから演劇を始めたんですね?
内田:そうですね。大分県だと小劇場と呼ばれるものは恐らくあまり無くって、知ってる舞台と呼ばれるものは吉本新喜劇かわらび座さんの巡業舞台しか観たことがないんですね。だから、東京に出てきた時に初めて小劇場っていうものを観て、衝撃を受けて演劇を始めようかってなりました。
──ちなみに最初に観た作品って覚えていますか?
内田:厳密に言うと自分の大学で出来た友達が演劇サークルに入って、付き合いでそのサークルに入ったらすぐにコント公演があってそれに出たんですけど。そこから外の世界へ観劇に行こうと思うようになって、演劇っていうと下北沢しか知らなかったので、カムカムミニキーナなんかが多かったですね。笑いがあるお芝居の方が馴染みがある感じですかね。
──今回ダルカラに参加することになった経緯とか、稽古に参加してみての印象をお伺いしたいんですけど。
内田:僕も宮地もそうなんですけど2年前の『演劇』公演を観て、その時ダルカラはまったく知らなくて、チラシに『演劇』とだけ書いてあって、なんだろうって観に行ったんですね。そしたら、めちゃくちゃ面白いなっていう記憶だけあって、その後谷さん演出の舞台を何本か観てて、そしたらTwitterに募集がかかってたんです。
「年齢×何百円」のオーディション参加費みたいな取り組みが面白いなと思って応募したんですね。一番の動機は、ああいう作品を作る谷さんってどんな人だろう? 会ってみたいなと思ってオーディションを受けました。
で、いついつの期間までにメール連絡がありますって発表があって、でもまったく連絡が無くて「あぁ、ダメだったんだなぁ」くらいに思っていたんです。そこから更に二週間くらいしていきなり知らないアドレスからメールがあって、それが制作の小野塚さんで。谷さんでもないし小野塚さんって誰? みたいな(笑)状態だったんですけど。
一回みんな面談をやったらしいんですけど、谷さんとスケジュールが合わなくて僕は結局面談をしてなくて、オーディションの後で一緒に飲んでるので「内田は一度飲んでるから大丈夫」みたいなことを言われまして。フワフワというか、なんとなぁ~くな感じで稽古に入ったので「今日からよろしくお願いします!」みたいな区切りがないんですよね。
今の稽古場に若手もいるんですけど、どこかでちゃんと一人の俳優として扱ってくれてるなと、若手だからというような変な特別視はないです。もちろん、僕ら若手はできないことだらけなので、教えて下さるというのはあるんですけど。劇団員さんとか客演さんに対する態度と、僕ら若手に対する態度についても、ちゃんと独立した一人の俳優として扱っていただいてます。その分、僕らも僕らでちゃんと仕事をしなきゃいけないなというプレッシャーがじわじわと来ています。
──内田さんはご自身でも、劇団を主催してらっしゃるようですが、実際にダルカラの稽古を見て何か感じることがありますか?
内田:僕はダルカラの中村梨那さんも在籍していた「早稲田大学演劇倶楽部」に入っていて、そこで劇団を立ち上げたんですね。言っても学生劇団ですし、何回か公演は打ってるんですけど、圧倒的に積み重ねてきている技術であったり、お芝居に対する熱量に差があって。
もちろん、劇団公演をやってるときは「お芝居に対する熱量は負けてないぞ」って思ってやってるんですけど、いざ現場に来て先輩方が準備している様子とか見ると、あぁ全然僕らは足りてなかったなってすごく思います。ものすごく勉強不足だったなってすごく思います。それをやらないとなって強く思っています。
──東日本大震災があった2011年3月11日は何をしていたのか覚えていますか?
内田:すごく覚えていて、高校受験の合格発表の日で「受かった、受かった」って友達と一緒に喜んで、夜一緒に食事しようねと約束したんです。
家に帰ってみるとずっとニュースが流れてて、初めのうちは九州なんで危機感は当然なくて、そのうち何だか大きな地震だったらしいぞっていう話になり、そこからずっと同じニュースが一日流れてて、津波の映像が入ってきて惨状は見えてるんですけど、正直言うと、フィクションみたいなんです。
同い年の友達と話していると、震災の記憶というのは合格発表の日にあったTVの中の出来事っていう感覚だったんですね。誰かがニュースの中で当時を振り返って話しているのを覚えている感じです。だから、最初にニュースを見たときにすごいインパクトを覚えたかというとそうではないですね。
その後大学一年生の時に南三陸にボランティアに行っていて、それは海に漁師さんたちが帰ってきたときに仕事ができるようにするために、森林伐採に行ったんですね。森や川がちゃんとしていないと海で漁が出来ないということで。そのときもボランティアで行くとすごい人数がいて、みんなで作業してご飯たべてって感じで現場は見てるんですけど、悲惨さに対する実感があまりない。だから、あんまり災害に心動くということは無かったんです。ただ当時、地方のローカル線沿線を野宿しながら歩いたり、無人駅で野宿するような旅が好きだったので、仙石線っていう仙台と石巻を結ぶ路線があるんですけど、その沿線を歩こうと思って石巻から出発して、まぁ二日かかるだろうなと思って出発したんです。一人で歩いていて、そろそろ夜になったからグーグルマップを見ながら民宿を探そうとして、海岸沿いを歩いていたんですね。でも、ぜんぜん着かなくてグーグルマップでは到着しているはずなんだけど、周りに何にもないんです。トラックとかは通るんですけど、あるはずの街がその場に無いんですね。
その時、あぁ流されてしまったんだって、初めて実感を得ました。ニュースや学校で聞いた震災の姿とは全然違っていて、恐ろしいし寂しいし全部流されて何にも無くなっているんだなってその時初体感しました。その時は津波で流されてしまった光景を感じて、この前さらに飯舘村に行って、今度は放射能の驚異がまだ身近にあるっていう新たなショックを感じて。
被災された方々はまた違う受け取り方をしていて、この場所の放射能をどうするかが問題だし、津波の方はここに住むかどうか、高い防波堤を立てても更に高い津波が来るかも知れない。同じ被災者でも其々に捉え方が違う方達が住んでいるわけで。もっと知ろうとしなければいけないし、知れば知るほど色んな角度から考えなければならないし。
今、東京で普通に生活してると、時間も経っていてアンテナをなかなか張れなくなってきているなと思うんです。ただ、東京という小さな社会にも被災された方々も住んでいて、今回も同じ座組で同じようにお芝居をして共演するとなって、常に色んな角度からの見方を持っていないといけないなとは思います。
──田植えの時にも、色々なところへ行って見たんですよね?
内田:初めてガイガーカウンターをもって、表示がどこまで来たら危ないとか。それってTVで見ているドキュメンタリーの世界で、ドキュメンタリーとは言ってもTVの向こう側で起こっているフィクションのような感じだったものが、目の前にある。その体験というのは結構衝撃でした。
現実の世界では行政とのやり取りがあって、色んなものに板挟みにあいながらも自分の土地をどうするとか、それを御年配の方々が自分の代で何とかしないとと奮闘されていて、孫達に問題を先送りしてはいけないという思いもあるようでした。ボランティアに行った時も若い人が少なかったなとは感じましたね。
僕が一番思うのは、今活動している大人たちがいなくなった後もあれは残って行くもので、思いや考え方を引き継いで欲しいなと伝えて欲しいなと思いますね。ただ難しいと思うのは、あれから何年か経って改善されている現地の環境とかもあるだろうけど、そこにいる方々の個人的な感情としてあの場所に戻って赤ちゃんを育てられるかと訪ねられた時、「はい」って即答できない何かがあるなぁと思うのも事実ですね。
日頃、キャッチする機会や考えるきっかけが少ないと思うんですね。大学の授業でサラっと扱われても受け取れないし。そんな意味でも、今回の舞台は若い人たちも出ているので観に来てもらって、舞台作品として面白かったら、これきっかけで考える機会にもして、動いていくきっかけにもして欲しいですね。
──最初台本をもらった時と今稽古してみて印象は違いますか?
内田:最初は「おぉ、主役か!」(笑)と思いました。
谷さんに「このキャラクター、東京から福島にあることを宣言しに帰郷する、ざっくり言えば主人公」と言われて言葉を失いましたね。状況はもちろん主人公とは違うんですけど、九州から出てきて家族との関係とか地元の友人との関係とか重なる部分もあるなと思いました。
やっぱり、すごい試練を頂いたなぁと思うんですけど、3年くらいやってきた学生演劇の中でなんとなく出来ていた嘘が全部バレて、「それは違う」とハッキリ言われて。そこに徹底した思いとか準備とか、演劇の現場で感じることがすごく大切だということとか、それを持てないと成立しないシーンが沢山あります。
──方言はどうですか?
内田:方言がむずがしぃんだぁ(笑)。
僕は器用な方じゃないので、お芝居するっていうだけで一杯になるところに、福島の方言ですからね。九州は大分なんで大分の方言なら話せるんですけど、東北なんで真逆なんですよね。否定の「ん」とか分かるところもあるんですけど、発語の仕方が基本的に違うんです。南は大きく口を開けますけど、東北はなるべく小さく開けたり。おどどいの稽古のあとで、できたって思ったことがあるんですよ(笑)。ずっと鴻上尚史さんの発音の本を読んでいたんですよ。そこに頭蓋骨の中でハミングの位置を変えていくって書いてあって、それを真似ていたら「あ!訛れる」って掴んだと思った7分くらいは出来たんですけど、朝になったらすっかり飛んでいて(笑)。
夜勤でバイトしてるんですけど、お客さんと訛りで話せると「東北の方ですか?」と言われてすごく嬉しいんです。このタカシというキャラクターは、標準語と方言を使い分けるんですね。方言がぱっと出ちゃうシーンとかあって、その面白さは台本にはあるので、できるようになりたいなと思っています。気持ちは良くわかるんですよ。地元の友達とか親とかと話してると急に大分弁がでるので。
──メンター制度はどなたとですか?
内田:東谷さんです。もうちょっと東谷さんに教えて貰いたいことが沢山あるんですけど。最初は本読みだけだったのが、急に立ち稽古になって、いわき公演まで日にちがドンドン迫ってくる感じで。だから言われたことだけやっていては間に合わないなと思ってます。言ってくださることって、僕らが事前に勉強して準備して持ってて、指摘されて初めて意味のある指導になると思うので。僕が今持って来ていることじゃ対応できない。戦えない。色んな本に書いてあるから知ってるっていうだけで、学生演劇じゃ太刀打ちできない。今稽古していて初めてそれらを実感してるなって思ってます。「あぁ、こういうことか!」っていうのを実感しています。でも、実感しているだけで、自分のものになってない。まだまだ手持ちの武器も足りないです。
──最後にみなさんへのメッセージをどうぞ。
内田:個人的なコメントすると、若手がおっちゃん達に食らいついてるぞっていう様を観て欲しいです。そこで一つは負けねぇものを手に入れるぞって思っています。今はまだ稽古でバンバン負けてますけど、本番までにはこれは負けねぇってもんを手にします。若いっていうのはどこかで恥ずかしいこと、甘えることになるって思ってたんですけど、そこは若いってことを武器にしなくちゃいけないと思うようになって来たんですね。今持ってる武器は全部使わなきゃいけないな、若さも含めて自覚して武器は全部使えるようにならないといけないなと思っています。そんな感じで戦ってますので、それを観てくれって思ってます。僕は、ちゃんとした地方にも行って何週間も公演するような舞台に初めて立つんですね。デビューだと思ってるんです。
ダルカラの若手のオーディションで受かって、そいつらが芝居して、お客さんが覚えていてくれて、5年後10年後僕らがやれてるかっていうのを観て欲しいです。やれてなかったら仕方ないですけど、やれてたらその時は「あの時の子ね」って言って欲しいです。
公演のことについてコメントすると、しっかり「あぁ演劇おもしれぇな」って思えると思うんです。なんかよく見えない太い柱みたいな思いが舞台の真ん中にあるので、その周りで僕らが存分に暴れまくってるので、是非見届けてください。もちろん、その中で派生して色んなことを考えていただいて、感じたことをお話して欲しいです。作品観て原発のこととか都会と田舎のこととか色んなことを、どう感じて、何に共鳴して、何に反発したか。そんなことをお話したいです。