Birthday:1966/7/24 Birthplace:兵庫県神戸市 Height:181cm
特技:無し 趣味:読書
1989年に旗揚げした「青空美人」が劇団だったときの看板俳優。現在まで小劇場シーンで活躍。代表格である「王子小劇場」「シアターサンモール」両劇場の、最優秀主演男優賞・最優秀助演男優賞のどちらをも獲得している。
ドラマターグとしても活動し、アムステルダムで活動する楠田健造とはオランダのコンテンポラリーダンスアワードを獲得した。また、長らく活動をともにした東京の劇団ミナモザの作品では、岸田戯曲賞最終ノミネート、読売演劇賞作品賞を獲得した。
<受賞歴>
2020年
門真国際映画祭2020 【国内作品 舞台映像部門/STAGE FILM】最優秀作品賞/Best Theatre Film
ドラマターグ担当作品 アガリスクエンターテインメント「発表せよ!大本営」
2017年
第24回読売演劇大賞 作品賞・男優賞・演出家賞ノミネート
ドラマターグ担当作品 オフィスコットーネ『埒もなく汚れなく』
2016年
第23回読売演劇大賞 作品賞ノミネート ドラマターグ担当・出演作品 劇団ミナモザ『彼らの敵』
劇場サンモールスタジオ 年間最優秀男優賞 出演作品 空想組曲『組曲「遭遇」』
2014年
第58回岸田國士戯曲賞最終候補 ドラマターグ担当・出演作品『彼らの敵』
2008年 王子小劇場 年間最優秀助演男優賞受賞
2007年 王子小劇場 年間優秀主演男優賞受賞
2005年 王子小劇場 年間優秀主演男優賞受賞
2004年 王子小劇場 年間最優秀主演男優賞受賞
2001年 the commission of the Nederlandse Dansdagen, high points of the season 2001~2002 ドラマターグ担当作品「Moisture Rocket」
Contents
Q1.演劇 ・俳優を始めたきっかけ:「 できれば『演劇・俳優をやめるきっかけとはなにか』という質問に変えてもらいたい 」
「もう秋か」
これはロバートのセリフではなく、小林秀雄訳のランボーの出だしだ。
「だが、なぜ永遠の太陽を惜しむというのか。俺たちは神聖な光の発見へと乗り出しているんだ」
強い。まったくもって、強い。アルチュールがこれを書いたのは二十歳そこそこなのだ(とされている。詳しいことはわからない)。さもありなん。
しかし、考えてみれば、このへんに麻疹のようにかぶれる年頃でも、僕にはランボーは眩しすぎるというか、怖いというか。まあ、怖かったのだ。だって、「惜しまない」のか……。さすが、このあとポイっと詩作を放り出し、砂漠で早世した男。
その点、ボードレール先輩になると、秋については書かないで、「もうすぐ私たちは冷たい闇に沈むことになる。さようなら、短すぎた夏の激しい光よ」と夏を惜しむ。このぐずぐずしたアカンタレの感触。だから僕はモンパルナスの墓地に花を手向けに行ったのだ。
二人とも「光」と言ってるな……。
ダルカラード・ポップの第一回休止公演に誘われた時に、ロバートのセリフとふれあってから、十年以上。折に触れて、ロバートの才能が失われていくさまと、来るべき自分の衰えを重ねて考えてきた。もう来るべきどころではないんだけど。
秋のイメージはプルーフの中で、とても重要だ。もちろん、真冬もとびっきり重要だ。でも秋。
さて、何をつらつら書いているのかというと。Q1の「演劇・俳優を始めたきっかけ」という質問がもう辛いという話を書いている。
一義的に書くと、生まれてずっと芝居にふれることなくすごし、18で上京して上智大学構内を歩いていると同郷のオカモト君に声をかけられ、本当はサッカーをやるつもりだったのに、偶然から、なんの気なしに大学の演劇サークルにはいった。とかなんとか。
そこからの年数の長さと、辿りついていないあちこちの約束の土地よ。where the streets have no name.遠い遠い、とおおおい日々を僕ら歩いていた。と歌うたいが歌う歌は素敵に綺麗だけれど、実際ひどく醜く、我慢できない。確かに「年を経るにつれ、物事は次第に難しくなっていく」よ。ロバート。
できればQ1を「演劇・俳優をやめるきっかけとはなにか」という質問に変えてもらいたい。
ではやめたいのか。なら、こんなところでうだうだ書いてないで、さっさとやめればよいのであって、やめたいのではない。しかし、終わるべきときがきたら終わるべきなのではないかとか、それはどういうときなんだろうとかを考えればよいのか。
実際に知っている人が舞台上で、あるいは病院で、その最後を全うされたり。あるいは、ひっそりと、しかしながらきっぱりと舞台を去る方がいたり。そのことについて、少しだけいつも考えている気がする。
演劇を終えることがあるのか。あるとしたら、どのような形が自分にとってよろしいのか。引き算をすれば、炙り出しのように答えが浮かんでくる。Q2の質問にもついでに及んで書いてしまうが、もはや、自分がふと思い浮かべる「好きなor影響を受けた」俳優や演出家や、なによりも作品たち。それらも半分以上、この世にいないのである。作品がこの世にいないというのも不思議な言い方だけど。
自分が中学生の頃、街の大人たちが真剣な顔をして外国人の音楽家が死んだ話をしていて、その日はもう開戦の日ではないのだ、これからは、彼の命日なのだといっていた。
へええ。そうなんだ。。。教科書に載っていることよりも、大切に思うものがあるということなのか。そんなふうに印象を覚えている。
だがそれから、数十年。光陰矢の如し。もうどちらの記念日もそれを語る人々の数が減ってきて、意味が薄らいでいく。
自分がすこしばかり大人になって、私淑するという言葉、行為を覚え、実際に澁澤龍彦が死んだ日、フランソワーズ・コワレが死んだ日には喪章を巻いたまま稽古をしたりしていた。要するに偉大なる人の死は、事件だった。
でも、もう最近は毎週死んでいる。
偉大であれ、ささやかであれ、それは自分の人生を造形してきた一部であり、さらには、むしろ一般的には偉大ではないものたち、ひとたちの喪失のほうが、日常が失われていく感覚になる。
話をやや進めてみる。例えば、勅使河原三郎。野田秀樹(敬称略)。この二人は1999年ごろ、僕の知っている舞台人の中でもっとも素早く動き、最も急角度で方向を転換するシンタイの持ち主たちだった。だけど、二人ともほぼ同じ年。『真空』と『taboo』の年に、まったく変わった。とワタシには感じられた。
ご存知の通り、二人は天才であるから、変わるときは僕のように、だらだらぐずぐずはしていない。はっきりときっぱりと意識的に変えたんだと思う。かたや、ただその右手を伸ばせば、京橋のセゾン劇場の壁が抉ることができるように思え、かたや、シアターコクーンの壁を垂直に駆け上がっていた二人がである。『真空』ではたゆたうように動いていた。『taboo』ではやわらかく佇んでいたのである。
まあ、考えれば当たり前なのではあるが、自分には本当に衝撃的であった。ある種のピークは誰にでもおとずれる。そしてそれを通り越せば何をしなければならないのかを考えはじめるきっかけのひとつだ。
でも考えてみれば、その頃すでに、同じセゾン劇場で、もう大野一雄さんはすでに大野一雄であったのに。この小僧は、見ていてもわからなかったのか。情けない。(『プルーフ/証明』の作者である)デイヴィッドは同じく三十そこそこで、絵空事の男をしっかりと産み落とし、実人生を歩んでるわたしには、想像上の人物とは思えない出来栄えに感じられると言うのに。
イメージ。イメージが足りない。
こうやって、推敲もせず、ただただ連想的につれづれと書いていても仕方がないのだけれど、プルーフのロバートとは常に失われたものと向き合う話であり、そしてそれをバトンしていく話でもあるのだ。歳を取り、自分ができていたことができなくなること。当社比、自分比で、まったくもう認めたくないクオリティをどうしていけばよいのか。
「そんなことをごちゃごちゃ考えるからダメなのだ。やればいいのだ。やれないやつこそ、そのように言い訳をするのだ。うだうだ話してないでヤレ。やりゃあいいんだ」
そんな向きもあろうが。いつまでも枯れることのない特殊能力者への賛美だけでは進めない。「やらないんなら、やめちまえ。そんなやつは必要がないのだ。」という連中の話ぶりにはもう飽き飽きだ。
突っ込んでボコボコにされていくハルを見習おう。いやいや、そんなことを言っているとそもそもクレアに怒られる。愛してるよクレア。本当に。本当だ。絶対に。こんなメンドクサイ父と妹のそばに立ち続けてるなんて信じられない。ありがとう。愛する娘。
とかなんとか。
もうこれはしょうがない。せいぜい怖れることを怖れず見つめよう。なんていう標語めいたことを言ったところで、消えないのだから。
それにしても、自分で自分の営業妨害をしてる気がする。ちっともスカッと爽やかじゃない。そういう意味でもこのQ&Aは苦痛だ。
Q3.役作りや稽古の準備のはじまり:「ホンをよむこと」
今、私はある「シャツ」を着てこの文章を書いている。きっとこれを書くにふさわしいと思うからだ。
私の父と同じ歳で死んだ中世フィレンチェ人のエピソードが好きだ。夜毎、居酒屋で近所の連中とくだを巻くのだが、家に帰り「官服」に着替え、こつこつと論をしたためる。斎戒沐浴は東洋も西洋も変わらない。彼もロバートと同じ、煮えたぎる腹の底をぐつぐつさせながら、政論を彫刻していたのだろう。
秋の空、冬の庭、凍てつくシカゴの空気。これらはすべて創造の産物だ。彼のひとりきりの時間、小さな蛍光灯がパチパチ、カランコロンと音をたてて灯る。そこから鮮やかに巨大重量をもった発電所が彼(ロバート)の書き続ける裏庭をぶち抜いてシリンダーを動かしながら駆動して登場してくる。
当たり前だが、こんなの芝居を上演する前に、記し披露するものではない。しかし、この質問群への例示としてよいかもしれないので、渋々というか、恥をしのんでというか、ここの例示だけは続ける。その代わり、質問4と5は勘弁してほしい。っていうか、この中に書いてしまおう。
示唆するここの三、四行はいろいろなものがとても絡み合って質問のヒントになる良い場所なのだ。まずそもそも創造上の人物がさらに、消えている書かれていない時間にどのような想像をしていたのかという場所。さらには翻訳をしている翻訳家も最大限作家としてその力を発揮し、原文の直訳よりも刺激的にかつ日本の観客にわかりよく単語を選ぶ。
蛍光灯をつけると、コロコロカランという音がすることがあると思う。僕は自分のデスクに灯りカバーが割れているすごくボロい中学生のときから使っている(わたしは何だか、ものすごく物持ちがいいタイプなのだ。)ナショナルの勉強用の灯りを使っている。くたばれパナソニック。
この音は何かというと蛍光灯内部にある個体の水銀によるもの。蛍光灯はアーク放電現象を起こして光を出す。そのためには水銀蒸気が必要なので、蛍光灯の中には水銀が固定されているんだけど、これが外れている時があり、それがカラコロという音をたてるのだ。蛍光灯を変えたばかり、つまり新品の蛍光灯でよくおこる現象。でもしばらくすると水銀は気化してしまうので、そうすると音はなくなる。ちなみに、逆に古くなった蛍光灯をつけるときジジーといいながらパチパチっとつくことがあるけど、あれは蛍光灯そのものではなく、コンデンサーの劣化だ。すなわち青い小さなグロー球のこと。あれを変えると、音はなくなる。
とかなんとか、今の電気屋さんたちからこれらのストックがなくなるともうこれらの音ともおさらばだ。
ただでさえ、世の照明器具がLEDだらけになっていって、もうすぐすべてなくなる。それはまた同時に「あの音たち」もなくなるということだ。それはラジエーターもまた同じ運命なのではあるが。父と娘が大好きだったおんぼろラジエーター。こちらにも連想を走らせたいがここは我慢して、動く発電所について書こう。
そろそろこのヒト、頭おかしいのかしらと不安の向きもあるだろうが、もちろん別に、発電所が動くシーンはない。わかって書いてますからご安心を。イメージ。イメージだ。
オーバーンの原文を読むと僕がイメージするのは小さな蛍光灯から、ぐわーんと広がって、ISSからの写真なんかにある、宇宙から見た夜の都市の光のグリッドをイメージする。スケールがあり、美しく、綺麗だ(ちゃんと翻訳家は電力供給網と注意書きしてくれている)。だけど、そこに発電所という超巨大な出力をもつ、電気を産む場所の単語をおくとどうだろうか。スケールもあり、さらに重量感がある。そしてシリンダーという単語が交錯し、庭で座っているロバートのことを思い合わせると、じっとして動かない彼の目の前で、小さな光がまたたいたかと思うと、庭向こうのありもしない壁をぶち破って、自律的に動く明かりの塊が登場してくるようだ。湖をモーセのように割って出てきたのかもしれない。とまあ、このへんは、脚本の実際の順番ではなく、全部をマリネしてみている。
そしてそんなインナーワード、イメージをもったまま、セリフを言ってみる。それにしても、この翻訳家のアジテーションともいうべき興奮させる能力は素晴らしい。
パチパチ、カランコロン、ドガーン。ズチャンズチャンとシリンダー音がなり、炎につつまれて、ゆっくりと方向を変える。たくさんの音が聞こえる。もう黙示録の例の怪物みたいだけど。ロバートはそれに出会ちゃったんだろうなあ。
ちなみに10年前には援用しなかったイメージで、最近ここを読んで思っているのは、写真の検出装置。
この丸い一つの<光電子増倍管>が小さくともったあと、0.2秒くらいですべての<増倍管 > が光るイメージ。そこに青いチェレンコフ光が発光する。。。東京大学宇宙線研究所の人には、スーパーカミオカンデはそんな装置ではありません。と怒られるでしょうけど、これはあくまで彼の頭のなかでの風景なのだ。
数学者の頭の中がそんな安い映画のイメージのわけないでしょ、というヒトもいるかもしれないが、岡、志村といった博士の著作を読んでいるととてもヴィジュアルを大切にしていると思う。数論とはほんとうに純粋な抽象なのだから。
「本題に戻ろう」。シンプルに書くとこうなる。ホンを読むこと。ずっとぶつぶつ読むこと。それによって、常時その作品について考えていること。初めて、プルーフを演じた時は、やってみたいなと思っていたことをたくさん試すことができた。なぜなら戯曲が10ヶ月前にあったからだ。嬉しかった。
思いおこせば、旗揚げをした劇団のときからもそうなのだが、再演が好きだ。私は出演数の割にたくさんの再演作品に出てきた。役者としてなら、むしろもうすべて新作じゃなくてもかまわないほどだ。そして再演とは結局新作上演とかわらないのだから。(もちろん、新作もたくさん作ってきたし、作ることは大好きだし、これからも作るだろうけど。ここに書いてある質問とはまた違う作業なのだと思う)
とにかく、この作品に出演できることは本当にありがたい。こればっかりは、ある種の運としかいいようがない。
冒頭のイタリア人は言ってる。
「必要なのは、ヴィルトゥ(力量、才能、器量)、フォルトゥーナ(運、不運)、ネシェシタ(時代の要求に合致すること)であった」と。少なくとも運を試すチャンスに切符を握りしめる喜びと、20歳の才能たちとやり合う「あー、しんど。」の苦しみ。
ロバート、あなたは「なんてな」なんて呟くが僕には1ミリもそんな余裕がない。
「彼らは一体どんな発想を閃くのだろう。なんてな」
ま、もちろん、まったくもって余裕の言葉などではないんですよね。あなたですら。
Q4.今回、俳優として挑戦したいこと:「『プルーフと数論』史の授業」
さっき書いた通り、今回は本当に参加できることが嬉しくて、そして怖くて、おそろしくてたまりません。ですが、「まあ、それが嬉しくてなあ……。ほんとだぞ。」ってなもんです。ずっとぐるぐるしています。
俳優として挑戦したいことはもう、ホント勘弁してほしいので、誰にも何にもしゃべりたくありません。
しかし、明確に具体的に4つあります。やるぞ。
うーむ。そうだ。今回、3組のチームができると聞きました。ならば、みんなと授業がしたいです。最初のまだ無駄な時間を許される頃に、できるだけコンパクトな「プルーフ世界とそれを導く数学者たち」と称して、30分くらいの予定をオーバーして60分ぐらい十二人を生徒に見立てて、「プルーフと数論」史の授業をしてみたいです。
とにかく数学者、とくに数論にはまる数学者たちは、本当に来歴が強烈です。一番穏やかに見えるラスボスのワイルズが、もう本当にオカシイし、彼も彼女も、教団の教祖も、裁判官も、切り紙のスペシャリストも。数論はまさしく巨人の肩にのって、少しづつ時をこえてバトンを渡しながら、進んでいくものですから、必然的にエピソードがオールスターキャストになっていきます。
そして、今回の演出家であり、プロデューサーである谷くんは気狂い(きぐるい)のオーソリティともいうべき、きわきわの人々の実像を描くことに挑戦してきた人という一面があります。
(ちなみに、僕が一番好きなダルカラのちらしは、ギロチンで切り落とされた自身の首を持つ公爵夫人のやつと、ものすごく長いタイトルのやつです。どちらもきわきわの人が主人公です)
それら彼が扱ってきた人物たち、漱石であれ、ヴィドゲンシュタインであれ、かれらもまた先人の肩の上をかりつつも、きわきわで大きく発露してきた人物たちです。ですから、この「こしかたゆくすえ」をながめることは無駄ではないと許してくれるでしょう。
とはいえ、「プルーフ世界はそれらを知ることでなおのこと拡がると思いますからです」というのは実はただの言い訳で、今の私は、1729ラマヌジャン曰く「女神が言ってるから」的に「授業してみたいなー」って思うので、ここに代わりに書いておこうと思います。
あと、こう言うところにでも書かない限りやらないので、ロバートの心象風景に見立てたインスタでもやってみよう。できるのかな。
Q5.演技・演劇について最近考えたこと:「なにも考えないようにします」
自由。いつもそうありたいと願う。
みっともなさとみみっちさを越える勇気。いつもそうありたいと思う。
写真は物持ちの良いワタクシの目の届く範囲であつめた、いままでのプルーフの持ち道具たちなど。ロバートが書きつけたノートやノック式のボールペン。台本たち。長い長い訳者からの言葉。チラシやポストカードも。読み倒していたサイモン・シン。老眼になってからは、A3に拡大していた脚本。もうボロボロばらばらになってしまったので、輪ゴムでとめているもの。etc
最近はこれらをぼーっと眺めていることもあります。そういうときは何も考えないようにします。うまくいえないけど、ロバートには何もないことと向き合うことが必要だから。
Q6.俳優としての座右の銘:「あんまり誰かを崇拝したらホントの自由は得られないんだぜ」
すでに書きましたがもう座右の銘の一義的な意味では、自分にはなくなってきているというか、もうそこらじゅうに座右の銘を見つけることができます。そう、「身の回りを見渡せばいくらでも見つけることができる」のです。
あるいは、悪戯なヨクサルの息子の「嗅ぎ煙草野郎」のいうように「あんまり誰かを崇拝したらホントの自由は得られないんだぜ」ということであるから、いらないのです。
代わりに昔から唱えてるなって思うことは「芝居は最初。最初のシーン。そのシーンのファーストブロック、その最初の1行。その最初の1音節。その先頭の1音」っていうのと「朝、家から出る時にその日の出来が決まる」っていうのです。どっちも自分の迷信みたいなもんですけど。そんなインチキみたいな自分自身の言葉は座右の銘とは言わない。イワシの頭の信念です。
さて、そんなモノよりも、アンドリューの素晴らしい言葉を。
「ある部屋に入るが、そこで何ヶ月も、ときには数年も家具にぶつかって足踏みしていなければならない。ゆっくりとだが、全部の家具がどこにあるかがわかってくる。そして明かりのスイッチを探す。あかりをつけると部屋全体が照らし出される。それから次の部屋へ進んで、同じ手順を繰り返すんだ」
これはフェルマーに最後のケリをつけたワイルズの言葉。僕たち俳優はものすごく頷くと思う。ずーっと自分という「身体と精神」をうろうろしている我々には、この言葉がとてもよく体感できる。
ドアをあけて、階段を登ってやっと大きな広場にでたと思ったら、うっすら霞がかってる。しばらくしてそれが晴れたら、ぐるりと広場を取り囲んで、いろんな形のドアがあり、さらにそこから階段が続いているのが見えます。でも、その階段がどこに続いてるのかわからない。ドアの前に貼ってある行先名がホントか嘘かわからない。登っていっても降りてきてやり直さなきゃいけないかもしれない。
もちろん、そこへの近道ガイダンスとして、劇団があったり、養成所があったり、国立の演劇学校があったり、イギリスにはケント大学があったり、brabrabra。
でも、結局素晴らしく堅牢なマジノ線のトーチカにはいっていても、戦いのことはわからず。気がつけば悪夢のようなドイツ軍が襲いかかってくるわけです。あるいはベトナムの密林の中では、雨のように降らした爆撃も、ウエストポイントの理論もちっとも役に立たないように、ものすごく非生産的なそして、たったひとつのパーソナルな営為なのだと思います。数学も演技も。学ぶべくは学び、自分を虚心坦懐に見つめつつも。要するに、どこかでおりゃあと道場破りを申し込んで、試合=死合をやって勝負して、切ったりはったを繰り返す感じ。
ワイルズでも何年も何年もかかっている。「できたと思った時には必ず大きな間違いがあって、それを修正」したのだ。とにかくブレイクスルーしたと自分自身が勘違いして調子に乗って自信を持つまで、ハル・ロバート予想の通り、時間tは無限に増大する。それでも「同じ手順を繰り返すんだ。」
それにしてもここにも灯りをつけるイメージが出てくる。
「光」
すごくありがちなんだけど、でも強烈に必要なんだな。
さて、最後にひとつ何か数式っぽいものをここにメッセージしたいと思いたち、捏造数式を書きます。
なんのことはないですが、このW (n) T(n) D(n) = Rは私が唱えてる、ごく、あたりまえ
の言葉であります。
特に30半ばくらいにこれに凝っており、ある全編エチュードで作る芝居のトップシーンで、これを水夫の役としてアレンジした言葉で客に熱く語るっていうのを繰り返してたら、次それをやったらもうお前はお終いだ!って演出家に言われたのも懐かしい。
さて。このWは大切なのですが、しかしそれ以上に、とにかくWTRの掛け算こそが作品品質なのです。思い出してください。やるべきことを、完全に間違えたタイミングでやって、嫌がられたこと。思い出してください。80点くらいの出来だから、満点じゃないからと自分で判断し、恥ずかしく中途半端にやってしまって、ちゃんとやればよかったのかもと後悔したことを。
A) W100 100点の出来を ✖ T100;まさに必要なときに ✖ D100:やりぬく
= R 1,000,000点です。
B) W80 80点の出来を ✖ T10;どうでもいいときに ✖ D50:半端に提供 = R
40,000点です。
Wにのみこだわる人は80点だからまあいいかって思ってますが、RをみてくださいWTDが満点のときに比べ、たったの4点です。
C) W50 50点の出来を ✖ T100;今欲しかった! ✖ D80:十分使えるよ! = R
400,000点です。
Wが50点の出来でも、TRが立派であれば出力Rは、Wが80点のB)に対し、10倍のRを獲得できるんです。
ひどいときは
W100 100点の出来を ✖ T100;今! ✖ D 000:やらなかったー =R 0
っていうことすらあるんです。ありますよね?
もうなんの話をしてるのこの役者は?バカなの?って思ってる読者の人。まあそうなんですが、ロバート風に言うなら、its up to you.
ぜひWTDRと唱えてみてください。あっはっは。
Q7.最後に自由にメッセージを:「 普通じゃないことをしよう」
読者のみなさん。最後にこの芝居の演出について。
もちろん、今現在、彼がどんなふうに上演をするのか、私にはわからない。常に挑戦的だし、そして必ず劇場あるいは場所によって何かを変えずにいられないヒトなので、何もわかりません。谷賢一は劇場と踊る演出家です。しかし、なんというか、そういったことももちろん重要ですが、そこではなく。
もし、あなたが初めて谷プルーフをみるならば、とにかく場面設定、あるいは場面設計の妙をフレッシュに体験できるのが羨ましいほどです。
プルーフは人気演目ですから、海外も含め、大小・プロアマさまざまな上演がなされています。ですが、谷プルーフが初演時から変えていない強力な演出設定がいくつかあります。それは他では見られないもの(世界中のプルーフをみてるわけではないのでわかりませんが)。
谷くんもまた初演時は二十代。まさに数学は若者のゲームだという年齢であり、その見者としての切れ味は素晴らしかった。
名作とは戯曲だけで完結するものではもちろんありません。デイヴィッド本人も想定していなかったであろう、あのいくつかの設定は是非継承してほしい。それはもう名作としての義務だと思います。
だって、我々の力不足はいなめず、まだ谷プルーフは累計しても3000人も見ていないのではないでしょうか。いくら演出家が、飽き性だからといっても、変えないだろうと思いますが。
あれぞ、きわきわのオーソリティとしての深い洞察力と可視化するチカラ。まだまだたくさんの人々にあれを体験してほしい。そしてその土俵で、一緒に共演するまだ見ぬ三人。ともにプログラムを完走する八人の俳優たち。普通じゃない、めちゃくちゃなことをしよう。何か自由に試してみようって時には特に!
* * *
演出家コメント
どうですか、皆さん。このページのコメントの熱量と言うか、情報量と言うか。読み通せなかった人とか、読んでも意味がわからなかった箇所もあるかもしれません。
しかし、これが中田顕史郎です。これが昭和の知識人です。俺たちは、俺や顕史郎さんは学生時代から「わからないことは、悔しい」と思い、狂ったように本を読みまくった。それで脳味噌が煮詰まった芋煮のようにサブカルと芸術でドロドロになって、まず高校の友達や家族と話が合わなくなります。「まあいいよ俺は演劇の仲間と心ゆくまで話をするから」と思っていても、いつの間にか身近に同じレベルで話せる人がいなくなって、結局一人で文庫本握り締めて泣くんです。ちくしょう、ばかやろう、おもしれえなあ演劇は。だから俺はぜんぜん寂しくなんかないぜ……って。
そんな孤独を味わう中で、顕史郎さんは僕からすれば大変な先輩ですが、同じ熱量で話せる希有な友人です。澁澤龍彦の話で盛り上がったり、つかこうへいについて語り合ったり、ルー・リードやデヴィッド・ボウイやチャーリー・ワッツが亡くなる度にメールで連絡を取り合ったり。
僕が初演の『プルーフ/証明』で良い作品が作れたのは彼がいたからでした。演劇は掛け算ですから、本が良くて俳優が良くても、演出家が0点だったり共演者が50点だったりするとうまく行かない。若くて跳ねっ返りの強い、野心はあるが情緒不安定で、熱意はあるが技術のない若者たちを面白がって、顕史郎さんが「いいぞ、もっとやれ」と応援して導いてくれたおかげで、僕らは全力で魂を燃やすこともできた。ときどき冷静に「本当にそうか?」と聞かれて、立ち止まって考え直すこともできました。顕史郎さんの文学・芸術・演劇知を、僕は大いに浴びました。
このページの文章もらったとき、思わず笑ってしまいました。長すぎるだろう、と(笑)。でも、みんなこれくらいの長文書いてみろってんだ。お読みの通り顕史郎さんは「気が進まないが……」と言いながら延々これだけ書いている。しかもこの人は締切を3週間も破っている。素晴らしいじゃないか。3週間破って書き続けたわけです。見事じゃないか。納期通りに上げるだけが芸術家のあり方じゃない。「もうちょっと、もうちょっと直させてくれ、待ってくれ……」という作家に仕事は来なくなりますが、僕もそんな表現の初期衝動を忘れてはいけないなといつも自戒しています。
僕も顕史郎さんも、芸術の悪魔にすっかり魂を奪われたヤバい大人です。自分の魂を震わせるような台詞、音楽、絵画、写真、もちろん演劇……そういったものを探すことだけを生き甲斐にしています。今回の『プルーフ/証明』で、芸術という確かな生命のひらめき、燃え上がりを感じたいものです。それを皆さんにお見せしたい。
谷賢一(翻訳・演出)
クラウドファンディングのご案内
DULL-COLORED POP『プルーフ/証明』は2022/3/2(水)~3/13(日)、王子小劇場にて上演されます(配信あり)。
クラウドファンディングにご参加頂くと先行予約にご応募頂けます。また「成長を見つめるコース」にご登録頂くと、このページに書かれているような俳優のインタビュー・演技論・感想・変化などをメールマガジンでお届け致します。創作の過程を併せて体験して頂ければ何よりです。